”古潭・押琴地区”ー”古潭八幡神社”の”狛犬”を見て来ました!
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”古潭八幡神社の在るー古潭·押琴地区”は「厚田場所」の運上屋が置かれ「請負場所」の中心地として発展した場所でした!
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ー運上屋とはー場所請負人の交易場の経済拠点です!ー
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松浦武四郎の「西蝦夷日記」(嘉永三年、1850年)オショロコツ(押琴)の項によればー訪れる和人は一万人もいたーとされています!
押琴の泊は、弁財船(千石船)が三千隻も停泊できる良港で運上屋も建てられ、古潭、押琴一帯は大変な賑わいを見せたとー記載されています!
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”古潭八幡神社”は海岸線を一望出来る場所に建立されています!”古潭地区”と”押琴地区”の中間点に在ります!
創建は明治5年(1872年)ですがー以下の逸話以降ー神社として確立したものと思います!
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ー逸話ー
明治13年(1880年)に押琴湾に大風の波風が押し寄せ、停泊していた北前船の多くが被害にあった!ーがーこの時に何も損害を受けずにすんだ”久吉丸の船主”が「神仏の加護がある」と喜び、翌年、大阪から神輿を積んで来て奉納した!
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”厚田村発祥の地の碑””厚田村”は此の地ー”古潭”ーで発祥しー”鰊の北上”と共にー現在の”厚田”に拠点を移しました!
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”弁財船投錨の碑”ーーーーーーーーーーーーーーーーー
”弁財船投錨の碑”の文面です!
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弁財船
安政五年(1858年)、ここ古潭の地に和人が初めて越年するようになってから漁場の開拓が本格的に始まった。
当時は陸上交通の手段がなかったため、春から秋にかけて大阪を出港し、瀬戸内海を経て日本海を北上する弁財船(北前船)が、本州と北海道を結ぶ交易船として唯一の交通手段であり、幕末から明治末期にかけて、物流・文化交流など北海道沿岸の開拓に大きく貢献しております。
古潭神社の下に見える押琴の入江は、南北を岩礁に囲まれた天然の良港として、当時弁財船が停泊し運上屋も置かれたところであります。
ニシン漁場として拓けた厚田村は、明治二十四年五万石水揚げが記録されており、厚田神社の境内に今もその時の記念碑が建っております。
五万石は三七、五〇〇トンで、約三七五億円の生産になります、
そのニシンも今は幻の魚となりました。
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ー”古潭八幡神社”ー
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”古潭八幡神社”に行って来ました!
「石狩市・厚田区・古潭八幡神社」
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ー鳥居です!ー
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ー手水鉢です!ー
手水鉢には弘化四年(1847年)辨才天と彫られ、押琴村・運上屋・弁天社の物が”古潭八幡神社”に移設されたものだそうです!
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ー拝殿です!ー
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ー灯篭です!ー
灯篭は嘉永三年(1850年)の刻印が有りー押琴村・運上屋・弁天社の物が”古潭八幡神社”に移設されたものだそうです!
「弁天社」は石狩・厚田・増毛の請負人の6代目・村山伝兵衛が運上屋の守護神として「弁天社」を再建したそうです!
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ー狛犬です!ー
狛犬も灯篭と同時期の嘉永三年(1850年)ー押琴村・運上屋・弁天社の物が”古潭八幡神社”に移設されたものだそうです!
狛犬は”北前船”との関係から「浪花型」と思われます!
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ー”古潭八幡神社”の”狛犬”の特徴・「浪花型」ー
・「狛犬カタログ」の分類によると「浪花型」の”狛犬”は”コロッとした口の周りの縁取りーが特徴のようです!-がー良く判りません!
・「浪花型」の材質は”和泉砂岩か御影石”が多いようです!ーがー此の”狛犬”の材質は”御影岩”のようです!
・”狛犬”の盤台石の正面には「奉献」ー側面には「嘉永三威正月吉日」と刻まれておりー奉納者は「アツタ場所 支配人 萬屋長松」と有りました!
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