日露戦争とユダヤ人財閥

🟩3月26です
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🟩日露戦争とユダヤ人財閥
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🟦序章・前振りのブログも終わりやっと興味の有る題材に入る事が出来ます
・此れからは時代の流れは無視しランダムに書いていきます
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🟠関連ブログ:
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🟦今回の題材は日露戦争とユダヤ人財閥”です
・此の題材を見た時何故日本人ユダヤ人が関係有るのか
・何故遠い極東の地の紛争にユダヤ人が関わっているのか
・そして何より民族・宗教問題と戦争の関わりが判りませんでした
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🟦ユダヤ人ジェイコブ・シス”何故?”日露戦争日本支援が関わっていたのか!?ーです
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🟩日露戦争前のアメリカ国内のユダヤ人の意識ー
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🟥日露戦争とユダヤ人財閥”を調べるに当たり私の無知がまた露呈してしまいました
・根底には東欧・ロシアから移住して来たアメリカ系ユダヤ人同族・東欧・ロシア系ユダヤ人への想いが有りました
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🟦この時期ポグロム帝政ロシアユダヤ人迫害からアメリカ東欧からのユダヤ人移住者が激増1880年代20万人・1890年代30万人・1900年第1次大戦までの間には150万人アメリカに移住しています
アメリカに移住したユダヤ人特に先行組のドイツ系ユダヤ人アメリカに同化しており彼らの”約束の地”の意識はアメリカで在ったのです
・そしてこのころ頻発していた東欧・ロシアに於ける”ホグム(迫害)が多発していました
とりわけ日露戦争が起きる前1903年キシニョフで起きたロシア政府が扇動してのホグは西欧アメリカに住むユダヤ人に衝撃を与えたのです
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🟠関連サイト:
キシネフ・ポグロム - Wikipediaユダヤ人に対する計画的迫害
ポグロム - Wikipediaーユダヤ人に対する計画的迫害
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🟩ー序章
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🟦何にでも?!-お金は掛かりますが戦争も例外では有りません
・現在のウクライナ侵略ガザ地区の紛争戦費の調達がどのように行われているのか?-判りません
・過去の日露戦争に於いて日本戦費の調達外債の発行で調達したようです
・此処に関わってた人物が日本高橋是清(当時・日銀副総裁)ユダヤ系アメリカ人投資銀行家ジェイコブ・シスです
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🟦シスは此の時にはアメリカに移住したドイツ系ユダヤ人です
・詳細は関連サイトにまかせますがロシアによるユダヤ人迫害シスの根底に有りーロシアにとの戦争にむけた日本の外債による戦費調達に関与したようです
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🟦ジェイコブ・シスにすれば投資銀行家としての経済的理由とロシアから迫害を逃れて来たユダヤ人東欧・ロシア系ユダヤ人の救済と言う政治的理由があったのだと思います
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🟦キッカケはウクライナキシナウでの迫害事件のようです
・当時ジェイコブ・シスは当時投資銀行家としてアメリカで成功しており大統領などにロシアユダヤ人迫害に抗議しています
高橋是清とはロンドンで知り合ったようです
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🟠関連サイト:
高橋是清 - Wikipedia
高橋是清は2・2・6事件で首相として射殺されています!
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🟠関連サイト:
ジェイコブ・H・シフと日露戦争ーアメリカのユダヤ人銀行家はなぜ日本を助けたのか
高橋是清と日露戦争ー明治官僚の剛胆と運
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🟩ー日露戦争の戦費ー
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🟦日露戦争1904年(明治37年)年2月より翌1905年(明治38年)9月ポーツマ ス講和条約調印されるまの1年7ヵ月戦われ日本が勝利しました
・この戦争近代日本としては初めて「真に国力を傾注した戦争」であったのです
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🟦その財政的負担も当時の日本経済にとってはきわめて大きいものであったのです
日露戦争は最初から外債頼みだった!ーそして日露戦争のための公債発行は内国債が国庫債券5回・発行額面額合計4億7306万円余・ 臨時事件公債1回・1億9967万円余・外債英貨公債が4回 ・同8億56万円余外債依存の比重が極めて高かったことが特徴でした
・当時の日本資本主義の力の限界が現れていたのです
・当時の貨幣価値を現在に換算すると
・企業物価指数で試算した場合
明治40年1万円平成10年1088万円になるそうです
・計算式は687.5(平成10年の企業物価指数)÷明治40年の企業物価指数=1088倍
・日露戦争の外貨調達金額は×1088倍=円になります
因みにー発行された公債の半分ジェイコブ・シスが調達したそうです
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🟦明治40年14億7329円現在の1兆6千億円になります
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🟠関連サイト:
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🟩ー日露戦争ー簡単説明
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🟦当時英国ロシアは対立していました
ロシア朝鮮・中国への南下政策をとっていました
・対抗策として日本英国日英同盟1902年に結びます
英国日本を使いロシア南下政策を抑えようとしたのです
ロシアが朝鮮に進出すると英国・アメリカ日本をけしかけます!ー三国干渉
1904年朝鮮の支配権を巡り日露戦争が始まります
大方の予想を裏切り日本大国ロシア相手に善戦しました
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🟦戦いを有利に進めた日本でしたが多くの戦死者を出しお金や物資が不足すると戦争を続けることが困難になり戦費の調達が急務になりました
一方ロシアでは戦争に反対する民衆がロシア革命運動を起こすなどし日本との和平を求める声が高まります
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🟦こうした状況の中アメリカが仲介役として両国に停戦を持ちかけたのです
1905年日露戦争講和条約であるポーツマス条約ーアメリカの仲介で結ばれます
ポーツマス条約
日本ロシアから樺太の南半分などを譲り受けました
・しかし日清戦争の下関条約のように賠償金を得ることは出来ませんでした
日清戦争よりも多くの犠牲者を出し多くのお金や物資を費やしたのに賠償金を得られず日本国民からは不満の声が上がりデモ隊の一部が役所や交番を破壊したり放火したりする事件も発生しました
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🟠関連サイト:
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🟩ー日本公債の状況ーロンドン市場ー
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🟦当初駐英公使林菫は公債募集に絶望視していました
・ パース銀行の総支配人ダンやロンドン支店長シャンドらも同様な見方で高橋是清が英貨公債1000ポンドを募集するという日本政府の希望を告げ たとき「いずれも燃ゆるがごとき同情は持っているがーただ話を聞きお くにとどまりー目下の状況では日本公債の発行は容易なことではない!という事ことだったそうです
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🟦英国三国同盟を結んだのにロンドンでの公債募集には消極的だったのです
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🟠関連サイト:
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🟩シス(ジェイコブ・シス)の経済的動機とは?ー
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🟥シス経済的動機とは?ー外債引受けによって得られる直接的利益である!
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🟦1904年ロンドンで発行された外国政府債です数か国有ります
・表示単位順は発行月発行政府利率 発行価格発行時の 利回りです
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2月 エクアドル 4 68 5.88 
5月 日本6 93 1/2 6.42 
5月 キューバ 5 第1回六分利付英貨公債 の条件(発行価額は額面 
6月 ギリシャ 4 97  84 5.~15 4.76 
7月 中国5 97 1/2 5.13 
 ・11月 日本 6 100ポンドに付き93ポンド 90 1/2 6.63
 ・12月 メキシコ 半期間7年実質利回り年4 94 4.26 6.42%
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🟦日本の第1回六分利付英貨公債1904年ロンドンで発行された外国政府債の中でも投資家に最も有利なものであったからである
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5月11日(ニューヨーク12日)応募申し込み 受付が始まったが日本軍が韓国から鴨緑江を渡河して清の九連城と安東付近を占領する勝利の報ロンドンでは募集開始前に早く もプレミアムが付く人気となった
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🟦ロンドンでは30倍の応募があり即日申込み締切りとなったそうです
ニューヨークでも12日受付開始翌13日締切り5倍の申込みが あった
ニューヨーク市場では同時に売り出された当時世界最大の企業U.S.スチールの五分利付き社債(利回りは年7%より人気を集めたそうです
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🟦シスが代表を務めるクーン・ロエブはウォール街の他の投資銀行に比べ早い段階から対外投資に積極的であった
シスが培ったイギリスヨー ロッパ大陸の金融業者との個人的つながり人脈が対外投資のための資金と情報をクーン・ロエブにもたらしたためでとりわけ高い収益の見込新興国日本への投資に熱心であった!
アメリカが帝国主義的領土拡大期 に入る前の1880年代には早くもメキシコ・カナダとの取引がありの 後中米諸国・アジア諸国・オスマン・トルコにも投資を拡大させていた!
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🟠関連サイト:グローバルな金融財閥
クーン・ローブ - Wikipediaーグローバル魔金融財閥
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🟩ーシスの日本への関心
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🟦シスは当時の多くのアメリカ人と同様ー中国日本特にペリー提督の黒船が開国させて以来ー近代化を急ぐ新興国日本に強い関心を抱いていた! 
シスはクーン・ロエブに入社する前の青年期小さなブローカー・バッジ・ シフ商会パートナーを務めていた時代の1872年日本の公債引き受けに参加しようとしたが失敗に終わっている
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🟠関連サイト:
prepareDownload (ndl.go.jp)明治初期の鉄道建設公債
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🟩ー日本公債の状況ーアメリカ市場ー
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🟦ベア リング兄弟商会の働きかけアーネスト・カッセル卿の助言もありシスが投資対象として魅力のある日本の戦時外債に引き付けられ たのは銀行家として自然の成り行きであった
シス1904年5月から翌1905年11月まで5回の日本外債発行に参加し ている
その合計額は1億9600万ドルに上りーニューヨークでは第1次 世界大戦前では前例のない空前の規模となった!ー日本の戦費の半分を調達したそうです!
1904年4月時点ニューヨーク証券取引所に上場されていた外国債券はフランクフルト市債と合衆国・メキシコ金貨債の二つにすぎな かった
・それだけに金融史家カロッソはアメリカの投資銀行の発達を論じた著書でこの公債の発行をこの時点までにおける最大かつ最重要な発行と評価した
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🟠関連サイト:明治初期の鉄道建設公債
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🟩政治的動機ー
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🟦シスは金融市場としてのニューヨークの地位を高める結果をもたらしました
・しかし経済的動機だけでは対日支援の動機を説明できないことも事実です
アメリカユダヤ系経済人のリーダーであるシスは国内のユダヤ人差別と闘い地位向上を目指す信念の人でもあったのです
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🟦東ヨーロッパ諸国特に帝政ロシアでのユダヤ人迫害ポグロム1880年代になると復活祭の季節になると年中行事のように発生した
ポグロム帝政ロシアの迫害を逃れアメリカへの東欧からの移住者は1890年代には20万人1890年代には30万人1900年から第1次世界大戦までの間に150万人がアメリカに渡りました
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🟠関連サイト:
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🟦とりわけ1903年キシニョフで起きたロシア政府が扇動してのポグロムは西欧ーアメリカに衝撃を与えました!
アメリカユダヤ人社会でも救援委員会が組織されシフユダヤ系アメリカ人を代表してセオドア・ルーズヴェルト大統領・ヘイ国務長官に書簡を送りロ シアに対して抗議しロシア国内ユダヤ人に国内旅行を自由にするなどキリスト教徒と同等の権利を与えるよう促すことをアメリカ政府に求めました
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🟠関連サイト:
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現在のウクライナです!
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🟩政治的動機ー
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🟦日露関係が緊迫し戦争は不可避の情勢になったときシス日露戦争帝政ロシアに打撃を与え体制変革をもたらすか?ー悪くても国内政治の改革が行われユダヤ人迫害政策が改められるきっかけになると考えたのです
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🟩シフの日本支援策ロシアに対する宣言!
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🟦シスは「日本100%正しくロシア100%間違っている」と宣言し日本を助けるため銀行家としての一線を越えた」とも評され日本支援に力を入れた
 シスは日本外債を引受けたばかりでなくロシアの戦争資金調達の妨害にも動いた
シスニューヨークの銀行家の私的会合でクーン・ロエ ブとしては自分の死後も反ユダヤ主義ロシアには投融資しないことを宣言また自ら取締役を務めるナショナル・シティバンクの役員会で通常の3-4倍の利益が得られるロシア政府公債の引受けを拒否するよう求め た
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🟦ヨーロッパの銀行家にも資金面での対露非協力を呼びかけた
ロンドンロスチャイルド家1875年以降ロシアの公債を引受けておらず ロンドンではユダヤ系・非ユダヤ系を問わずロシア公債を引受ける金融機関はなくなるシスに断言しました
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 🟦一方シス日本に対する支援はアメリカ国内で他の金融機関に引 受シンジケートへの参加を呼びかけることにとどまらずドイツをシン ジケートに加えることを日本の高橋是清に助言しヴァールブルク商会とドイツ・アジアティッシェ銀行グルー プを高橋に紹介した
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🟦シスの友人であるヴァールブルク商会のマックス・ M・ヴァールブルクはドイツ銀行頭取と共にドイツ皇帝のヨットに乗り皇帝から日本への投資を行うことにお墨付きを得て1905年7月・11月2回高橋の交渉した英貨公債募集に参加している
日本の巨額外債発行成功は全権代表としてポーツマス会談に乗り込ん だ小村寿太郎外相の交渉上の強力な後ろ盾となった
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🟦一方ロシアの全権代表のセルゲイ・ウィッテ伯は覚書でロシアは資力を使い果たした!ー国際信用は地に堕ちた!ー内外で公債を発行することはもはや不可能だ」と苦渋を記していた
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🟩ー日露戦争後
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🟦日露戦争後シス「日本の友人」「日本財政の非公式顧問」とし て日本支援を続けた
1906年10月サンフランシスコ地震のあとカリフォルニアで起きた排日運動などによりギクシャクし始めた日米関係の友好維持・緊張緩和を図るため1908年シスはアメリカの金融・教育界 のトップ40人を招いて日本政府高官のための晩餐会を開いている
・また1912年の東京市債のニューヨーク市場での発行・日本興業銀行株の海外 市場での売り出しはいずれもシスから高橋に寄せられた助言にもとづくものであった
一方南満州鉄道の権益がポーツマス条約でロシアから日本へ譲渡されたのを見てアメリカの鉄道王・エドワード・H・ハリマンがその買収 に動いたときシスは支援し日本に売却を働きかけている
・この計画の青写真を書いたのは1905年当時ソウル駐在アメリカ副領事ウィラード・ ストレートで満州など中国北部へのアメリカの投資を説いた
・シベリア横断鉄道買収の野望を抱いていたハリマンはソウルを訪れたときスト レートの構想を聞き関心を寄せ中国にも深い関心を寄せていたシスに 話をつないだ
シス1908年8月31日付の書簡で高橋に「鉄道への 日本の投資負担を取り除く」ためにーハリマンへ売却してはどうか?ーと提案した
・だが日本は売却に同意するどころか逆に満州への進出意欲が強くシスの提案は不成功に終わっている
シス日本に寄せる好意に対して高橋日本政府が深い感謝の気持ちを表したのは当然であった
日露戦争中1905年(明治38)年1月日本政府高橋の強い推挙もあり日本の公債募集に関して「周旋尽力少なからず」として勲二等瑞宝章を授与した
・さらに講和成立後の翌1906年(明治 39)年日本政府は再び勲二等旭日重光賞を明治天皇から直かに授与することをシスに通達した
シスは勲章を受けるために甥のエルンスト・H・シの他友人を伴い日本に向い2月22ニューヨー ク出発6月8日ニューヨーク帰着という約3ヵ月半日本旅行を行った 
・そして3月28日皇居で外国民間人としては初めて明治天皇に会っている
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🟦ーシフの発展
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🟦シスクーン・ロエブ商会 ジェイコブ・ヘンリー・シフ(1847-1920)ドイツ生まれのユダヤ系ア メリカ人である
ジェイコブの生まれたフランクフルトシフ家14 世紀に遡る家柄で・初期のシフ家は住居1棟をロスチャイルド家と共有する間柄であった
・敬虔なユダヤ教徒の父とジェイコブは折り合いが悪く1865年18歳アメリカへ単身移民する
ニューヨークの小さな商社で働き始め1870年アメリカに帰化する
・父の死で一旦フランクフルトに戻るがそこでクーン・ロエブ創業者・アブラハム・クーンと出会い外国為替取引の知識を認められて1875年に投資銀行クーン・ロエブ商会 に入社する
・共同経営者のソロモン・ロエブの娘と結婚してパートナーに昇進社内での立場を固める
・ソロモン・ロエブの引退した1885年以降は事実上の経営トップとなる
・設立当初のクーン・ロエブ 商会は公債と鉄道債券を扱っていた
南北戦争後アメリカ国内は鉄道建設事業が盛んで事業資金の巨大な需要があった
このアメリカ資本主義の追い風とジェイコブ・シスユダヤ人ネットワークを利用した経営手腕が相乗作用を生みクーン・ロエブ商会は急成長した
・時代の追い風である鉄道建設は1880年代最盛期を迎えクーン・ロエブ商会も12以上の鉄道に資金供給した
・しかし1893年の恐慌のあと鉄道会社は経営難に陥るところが続出モルガン商会をはじめとする投資銀行が再建・整理・統合の主導権を握った
・クーン・ロエブ商会の場合ユニオン・パシフィッ ク鉄道買収が有名でこのとき以来シフは鉄道王・エドワード・H・ハリ マンと提携する
・ユニオン・パシフィック買収はシスの金融業者としての名声を高めた
19世紀末から20世紀初頭にかけてクーン・ロエブ商会は モルガン商会に次ぐ地位をウォール街に確立する
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🟦ーユダヤ人財閥とネットワーク
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🟠関連サイト:ユダヤ人財閥
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🟦ーユダヤ人財閥とネットワーク
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 シス成功の要因の一つにユダヤ人ネットワークの活用があった ニューヨークのユダヤ人社会1870年代には10万人を超える規模に膨 れ上がっていた
ユダヤ系投資銀行の結束は固かった
・クーン・ロエブ商会はグゲンハイム系鉱山会社への投融資を行っていたがこれもシスユダヤ系のグゲンハイム家との友情によるものであった
シスは休暇と ビジネスの機会を利用して頻繁にヨーロッパ旅行を行ドイツ・イギリスの金融関係者と絆を太くしていった
シスと家族ぐるみの交際だったロンドンのアーネスト・カッセルはケルン出身ドイツ系ユダヤ 人で英王室とも親しシスの日本外債引受け決断に大きくかかわった
 ・ロンドンロスチャイルド家ハンブルグのヴァールブルク家とも交友は深かった
・この交友関係の広さを利用して1870年代アメリカの鉄道企業の発行する債券をクーン・ロエブ商会がヨーロッパの銀行などに売りさばいた
・のちにヨロッパの企業や政府が発行する債券をクーン・ロエブ商会がアメリカの投資家に売り出す役割を演じて いる
ヨーロッパの銀行・金融業者もクーン・ロエブ商会との取引により利益をあげた
シスヨーロッパの銀行・金融業者にとってアメリカの政治・経済・穀物収穫高見通しなどの情報を集める上でのよきアドバイ ザーでもあった
シスがクーン・ロエブ商会の経営陣を身内のユダヤ人で固めたのも自 然の成り行きであった
そのうちの一人でのちにアメリカ連邦準備制度(FRB)の理事に就任初期のFRBの金融政策に影響力を及ぼしたポー ル・ウォーバーグは1902年シスの妻セレーズの妹と結 婚・クーン・ロエブ商会パートナーとなった
ユダヤ人移民支援と慈善事業クーン・ロエブ商会の発展ビジネスの成功と平行してシス1880年代初めからアメリカユダヤ人移民の救済・差別への抗議・またー移民制 限論への反対などに取り組む
これはロシア迫害を逃れてきたものの ー言葉が不自由でありー差別に苦しむ新移民への支援が中心であった
シスはその地位を利用し私財を投じてしばしばユダヤ人差別と闘った
・リーディング鉄道のオーガスト・コービン社長が土地開発からユダヤ人を締め出した時(1888年)ニューヨーク=オンタリオ・アンド・ウエス タン鉄道反ユダヤ人のパンフレットを配布したとき(1892年)にはークー ン・ロエブ商会として両社の社債売り出しに協力しないと通告し後者の 場合はー相手会社からの謝罪を勝ち取っている
 ・一方ーこの時代ーヨーロッパからシオニズムの運動が燃え上がったがーシスは同調しなかった!
シス1907年7月ユダヤ人集会 の席上ユダヤ人にとっての「約束の地」 はアメリカでありパレスチナではないと述べている
・「アメリカユダヤ人一時的な避難所ではない」とも延べユダヤ人移民アメリカ定着に力を注いだ
・投資銀行家として成功しアメリカン・ドリームを体現したシス信仰心の厚いユダヤ教徒であるが上流のキリスト教徒的倫理観をもち百万長者になっても成金的ではなくー慈善事業に積極的に取り組みキリスト教徒を含め多くの人に尊敬されていた
 慈善事業ではハーバード大学・コーネル大学・アメリカ赤十字社へ巨額の寄付をしている
 ・シスの移民救済事業として知られているのはモントフィオーリ・ホー ム兼病院ユダヤ神学校ヘンリー街セツ ルメントーロルシュ男爵基金ー全米ユダヤ人委員会などがある
シスが最も 力を入れたモントフィオーリ病院は1884年ニューヨークマンハッタ ン84番街に建設された施設で難病・慢性病(ガン・結核・梅毒・麻薬中毒・うつ病など)に悩む貧しいユダヤ人難民の病人たちのための慈善事業として始まった
ロシアからの難民の増大とともに難病慢性病に悩む人たちは増え続けていた
・施設はのちにブロンクス地区に移転(今日のモント フィオーリ医療センター)したがシス1885年以降理事長として運営 に精力的に取り組んだ
1920年1月死の8ヶ月前シスはモントフィオーリ病院理事長を退任したがその慰労晩餐会で理事のウィリアム・ゴール ドマンはシスの慈善事業とモントフィオーリ病院への貢献を称えアメリカユダヤ人社会に と述べている
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🟦帝政ロシアのユダヤ人迫害への抗議活動 
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シス日露戦争後も続く帝政ロシアユダヤ人迫害に強い怒りを感 じていた
シスロンドンロスチャイルド家をはじめサミュエル・モ ンタギュ卿・モーリス・ド・ヒルシュ男爵などヨーロッパユダヤ人指導者ネットワークにも抗議活動を呼びかけた
バルカン半島・モロッコ・パ レスチナユダヤ人弾圧にも目を向けた
財力ではロスチャイルド家より下であってもシスの発言力影響力は勝るとも劣らないものであった
 日露戦争中のロシアの戦時公債募集への非協力の呼びかけはーその抗議活動の第一歩ともいえる
ロシア側には戦時資金調達という切迫した現実の前にシスロシア向けローン“ボイコット”運動を封じ込めたいと の思惑があった
1904年フォン・プレーヴェ内相シフに協議を申し入れてきた
シスは外国のユダヤ人向け出入国ヴィザ(査証)制限の撤廃を求めた
・外国人向けヴィザ(査証)が撤廃されればロシア国内ユダヤ系国民の自由な旅行を禁じた政策も維持できなくなるだろうとの読 みだった
・申入れより数週間後プレーヴェは暗殺された
・その後も帝政ロシアシフの義弟・アイザック・セリグマンの遠縁で当時駐米ロシア大使館金融担当アタッシュを務めていたユダヤ系ロシア人・グレゴリー・ウィレンキンを通じてアメリカ市場での資金調達へ の協力を求めシスに接近した
シスは「ロシアユダヤ人に対する野蛮な 政策によってアメリカ国民の好意とアメリカ金融市場を失った」と答えいる
 ・また1905年夏ポーツマス会議にロシアの全権代表として出席するヴィッテ蔵相とアメリカユダヤ人代表との会合が開かれたときにはシス5人ユダヤ系アメリカ人代表の一人として出席「ロシ アがユダヤ系国民の正当な権利を拒み続ければーアメリカ国民ロシア に対する好意は大きく損なわれることになる」と持論を展開した
・ヴィッ テ全権代表もアメリカ国内の対露感情悪化を懸念しーユダヤ人政策の改善を約束せざるをえなかった
・またシスアメリカ政府にも帝政ロシ アユダヤ政策見直しを促すために1832年調印された米露通商条約の廃棄を求めた
・条約は両国民の相手国との貿易相互訪問を保障していたが1875年ごろから帝政ロシアユダヤ系アメリカ人の入国を制限し査証発給を拒むようになった
シス全米ユダヤ人委員会(AJC)を通して条約廃棄を求める大キャンペーンを展開した
・キャンペーンは議会を動かし1911年12月アメリカロシアに廃棄を通告した
 ・ロシアシスに対する怒りを隠さなかった
1911年ロシア蔵相は「ロ シア政府はあのユダヤ人ーシスロシアに行ったことを決して忘れないし許さない
シスが一人日本アメリカでの資金調達を可能にした
 ・シスロシアにとって最も危険な外国人の一人である」と外国人ジャーナリストに語っている
 ・1917年3月ーロシアで3月革命が起こり帝政が倒れるとシスは喜んだ
 ・シスはケレンスキー政権(ロシア臨時政府)を支持しケレンスキー政権が発行する公債のうち100万ルーブルの引き受けを約束した
日露戦争時にはジョージ・ケナンが日本国内の収容所に収容されているロシア人捕虜に帰国後の蜂起を促す革命の宣伝文を秘かに配布したときシスはケナンと連絡をとりその作戦を助けている
 ・1917年11月ーボ リシェビキによる11月革命が起きるボリシェビキの中にトロッキー などユダヤ人指導者がいたためーユダヤ人=ボリシェビキ」とする見方が欧米で強まりユダヤ人は資本主義・キリスト教国を転覆しようとし ている」という“ユダヤ陰謀説”が広まった
・この結帝政ロシア=反ユダヤ主義」ととらえて“反ユダヤ主義戦争”を展開してきたシスたちに逆風が吹きつけることになった
シスはボリシェビキには反対であった
・しかしー反ユダヤ主義の自動車王・ヘンリー・フォードは自らの支配下にある新聞・ディアボーン・インデペンデントで繰返しシスはボリシェビキに資金を供給した」と攻撃した
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🟠関連サイト:
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🟥ーロシア革命ー
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🟦ロシア国内ユダヤ人迫害は同胞愛に燃えるシス帝政ロシアとの長い戦いに突き進ませた
・だが帝政ロシアが倒れた喜びもつかの間シスロシア反ユダヤ主義の終わりが来たのではないことを覚った
・逆に「ユダヤ陰謀説」の登場でシス反ユダヤ主義勢力の標的となり苦しむ
一方日本との関係では日本帝政ロシア1910年満州の特殊権益を守るために第二次日露協約を結んだときシスは激怒した
日本のやり方は裏切りではないとしても忘恩行為だと受けとめたからである
「日本が人類の敵ロシアと手を握るとは・・・。ひどくくやしい思いがする」と述べている
 しかし高橋との友情にひびが入ったり日本への思いが大きく変わったわけではなかった
・むしろその後の日本中国進出に対して中国が安定すると理解を示すほどであった
1922(大正11)年9月1日の関東大震災で日本は震災後復旧のため再び ニューヨークでの外債発行を計画す
・この時井上準之助蔵相はクーン・ ロエブ商会ではなくライバルのモルガン商会を交渉相手に選んだ
一次大戦アメリカ国内に反ドイツ感情が高まりシスドイツ系ユダヤ人移民が経営するクーン・ロエブ商会の影響力に陰りがさしていたからであるが井上高橋への対抗心があったからともいわれる
・しかし日本政府シスに対する感謝の念がそれで消えたことを意味するわけでは なかった
・旧大蔵省の歴代の財務官はニューヨークシス家の墓に詣で 感謝の祈りを捧げるのが習いだったといわれている
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🟠関連サイト:
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🟦しかしアメリカ・ユダヤ人にとって本当の意味での日露戦争の重要性はーアメリカ・ユダヤ人とは見全く関係のないこの事件を通じてアメリカにおいて従来ユ ダヤ人の問題として考えられていたロシアユダヤ人迫害 問題実は自由と平等を愛するアメリカの問題であるという認識を意識的に植え付けることにあったのではないだろうか
日露戦争ーアメリカ・ユダヤ人にとってロシアユダヤ人迫害問題について考えさらには自らが国際ユダヤ人社会を保護するリーダー的な存在として今後どのように諸問題に対応していくことが効果的なのか答え を見いだす契機となったようです
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🟠関連サイト:
日露戦争期のアメリカ・ユダヤ人・ダビデに例えられた日本
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